人生、懺悔

 

※この記事には性暴力に関しての詳細な記載があります。

 

 

 

 

 

 

まずは小学2年生の時、5歳離れた年上の男性に性暴力を働かれたところから書く事を始めようと思う。

その相手は苗字も名前も実家の住所(現住所かは定かではない)もわかる相手で、私が小学1年生の新入生の遠足で手を繋いで歩いた6年生だった。

毎週木曜日の夜の8時から9時まで、小学校の体育館にママさんバレーで通っていた母親について行って、そこに同じように来ている学年を問わない子供達と遊んでいた記憶がある。そこでかくれんぼをしていると、その男は私を体育倉庫の体操マットが積み重なっている隙間に手招きして呼び寄せた。その当時男はまだ中学1年生だし、知っている人だったので(私にあだなをつけてからかってもいた)大人しく従った。壁と体操マットの間には子供二人がギリギリ入れる隙間があって、埃とカビの匂いがした。かくれんぼ中の私は純粋にそこに隠れていたいのに、男は私の服に手を入れ未発達の胸を執拗に触った。私は何をされているのかは当時ははっきりとわからなかったが、「だめなこと」だとは認識していた覚えがある。身をよじってやめて、とも言った。そうしていると、他の小学生たちがやってきて「見つけた」と言う。そしてようやくホッとその男から離れることができた。そんなことが何回か続いた。男がいるたびに体育倉庫に呼び寄せ、胸を触る。違和感はあったが「だめなこと」と認識していたため母親には言えずにいた。しかしある日、男は胸ではなくズボンとパンツの中に手を入れて来た。体操マットが積み重なっているすみで男は私を強く抱きしめていた。小学2年生の性器なんてほぼ赤ちゃんの性器のように未発達なのに男は執拗に指で弄り回し「濡れてるね」と言った覚えがある。(ここからの記憶は一部欠落)カビ臭い体操マットに痛いくらい顔を押さえつけられ、後ろから男の性器をねじ込むような動きをされた。その動きをされただけで挿入にはいたらなかったと思う。私はその瞬間泣き出し、体育倉庫を抜け出し母親に「いじめられた」と泣いて訴えた。子供の喧嘩だと思われたのか母親は特に何も言及することなく、帰りの支度をした。その夜風呂に入る時、無理やり弄り回された性器がじんじんと痛んだ覚えがある。(その後小学生高学年の時、呼び止められた男の家で強姦されるがその事実以外の記憶が一切欠落している)

 

この話をなぜ公表しようと思ったのか。それは数ヶ月前、居候先で1年半ぶりに通院した精神科医の診察で、今まで大人に言ってこなかったこのことを話の流れで話したら「それはとてもひどいことで、犯罪だ。辛かっただろうね」と言われたからだった。その医者はこの経験をはじめこの経験から、双極性障害よりも根本に境界性人格障害の気質を疑い、居候先にいる期間は最低限の投薬治療を選択してくれた。(現在、地元に戻り双極性障害に重点を置いた投薬治療に変わっている。)

そしてなぜ被害者である自分の書くタイトルが「人生、懺悔」なのか。実際、自分でも驚くほどに自己肯定感がないというか、自分の肉体や精神を大切にする能力に欠けていて、それがこの暴力行為からなる幼少期から「大人に大切にされてこなかった」ことによる自罰的な感情ではないかと思う。確実な被害者でありながら、どこまでも自罰的で内向していった自傷のせいで、結局立派な大人になるまで医者や力になってくれる人に相談できなかった。

だからこの期にインターネットの匿名性を利用して、他者へ発信することによって見ず知らずの同じような誰かと寄り添いたかった。長い間、当事者同士で語り合う自助グループなんかに参加してみたかった。それが田舎に帰った今難しくなり、その男をどうにかしてやりたいという憎しみの気持ちを少しずつ忘れていって、苦しみに足掻くには若く無い年齢になってしまっている。

ただ、私は私の地獄があって、それを誰かに理解してほしいとか、汲んで欲しいとかではなく、ただその地獄を「無いもの」とすることが怖かった。

そして、私はなぜ小さい頃から辛く鬱屈とした記憶しかないんだろう。中学生のときからリストカットが辞められないのはなぜだろう。今でも自信がなく、自分を好きになってあげられないんだろう。そう考え込んでしまうとき、このことを忘れてしまってはいけないんだろうと人ごとのように思う。

今後、調子が悪いとできない自省を少しづつでもできていけたらなと思っている。

感想「Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀」

 

先日(といっても大分前になりますが…)pixivFANBOXにて

Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀

の解釈依頼を受けまして、その感想を羅列します。
解釈というよりも一人語りのオタク構文で書けないことを先に陳謝しておきます。

 

予定調和のエンターテインメント性

 

台湾の伝統的な人形劇をベースに人形劇アニメ、さらには虚淵玄脚本?!
要素てんこもりすぎて困惑しましたがその困惑は一話の序盤で払拭されました。サンファン、面白すぎる。
中国ファンタジーあるある演出らしいですが必殺技や決め場に現れる漢詩の演出。最高すぎて手叩いて喜んでしまいました。急に中国語でナレーション入ったかと思うと画面に漢詩が現れるんですよめちゃめちゃカッコよくて、そりゃもう喜んじゃいますね。最終回までこの演出が来ないか今か今かと楽しみにしている自分がいました。
コテコテではあるんですがオタクだったら胸熱間違いなしというファーストインパクトがあり、さくさくと視聴を続けました。

 

作画崩壊が皆無のストレスフリー

 

人形劇なので当たり前なんですが作画崩壊が起きないストレスフリーは半端ないです。しかも自分はドールオタクなので結構感動しました。日本のキャストドール界の最大手ボークスが絡んでいるかと思いきや違いましたね。せっかくだからボークスとコラボすればよかったのに~とか思っちゃいまいすね。顔がいいことに変わりはないんですが。
 作画崩壊がない喜びもありますが、半実写故の演出に興味が湧きいちいち楽しめました。ただ戦闘シーンで物体が激しく動くため、めちゃくちゃ目が疲れました。逆に言えば躍動感がすごいということなんですけど。

 

そんな感じで主要キャラクターの各キャラクターのプロフィールも個人的感想を書きます。一発で好きなキャラクターがわかると思います。ネタバレの際は都度表記します。


凜雪鴉(リンセツア)
通り名は「鬼鳥(キチョウ)」
cv鳥海で美丈夫設定だったらみんな好きじゃんそんなん。一応シリーズ通しての主人公で後述の殤不患(ショウフカン)を旅へ導きます。
めちゃくちゃ好きじゃん要素としては私的に「大盗賊で手にしたお宝は10秒見て少し触ったら完璧な模倣品を作れる」というところがアツイです。
「月明かりを浴びて影を落とさず、雪道を踏んで足跡を残さず、天地の理さえも欺いて奇計妙策を巡らす」
なんてめちゃくちゃカッコいい。
個人的な意見としてキャラクターの「矜持」を大切にしている作品て一貫性と説得力があって好きなんですよね。矜持と言ったら仰々しいけど己の欲望に突き進む姿に安心感さえ覚える。
彼は大盗賊の悪党だけどその魂胆は金銀財宝目的でなく悪党を欺きその傲慢さを蹴散らすことで悦を得るような奴なので一石二鳥だね(?)


殤不患(ショウフカン)
キチョウと旅路を共にする(する羽目になった)男でもう一人の主人公。義に熱く、そんな理由でええんかという形でキチョウの口車に乗せられちゃうお人好しな武人だけどその実めちゃくちゃ強くて聖剣邪剣など人々を脅かす魔剣を封印した「魔剣目録」の持ち主でとりあえずめちゃくちゃ強くて大変な目にあっちゃう。お人好し。


丹翡(タンヒ)
物語の軸となる「天刑劍」の鍔を守る一族の末裔でヒロイン。後述のラスボス、蔑天骸(ベツテンガイ)にその鍔を奪われ兄を殺され、鍔を取り戻すために旅路に出る。普通に強くてとても誇り高い女性だからこそ物語中いつボコボコに屈辱的な目にあわないかハラハラしてた。


狩雲霄(シュウンショウ)
cv小山力也の弓の名手でキチョウに呼び寄せられて旅を共にする。cv小山力也だからドクズ


捲殘雲(ケンサンウン)
タンヒのこと好きになっちゃうから大好き可愛い。シュウンショウの弟子で旅を共にする一人。若者で修行中の身のために時々力及ばず。タンヒよりヒロインですね。物語の唯一と言っていいほどの良心なので死なないかビクビクしてた。


刑亥(ケイガイ)
冥界生まれで「夜魔の森」に住む普通に怖い妖怪女。なんか笛吹かないと道中ダルい所があったらしくそのためにキチョウがやっほ~笛吹くのよろ!って」てして協力するけどキチョウが死ぬほど憎いらしい。最後までただの妖怪。


殺無生(セツムショウ)
ぼきわせつむしょうくんが大好きで~~~~~~す!!!!!!!
まずcv檜山で悪役は最高じゃん。しかもって戦って人を斬り殺すことしかまるで興味ないんだよ。好きじゃんそんなん。ロリです。セツムショウくんは純真無垢なロリです。
悪名高い殺人鬼なので作中ご飯屋さんにお酒飲みに行くんですけど客やらが全員逃げてその損害分のお代を貸し切り料として払う描写があるんですけどめちゃくちゃ可愛くて愛おしくないですか?変なところで気前の良さを出すな。
生い立ちなどは一切語られずキチョウに因縁があるらしいという過去が匂わされるだけです。おそらくキチョウに意地悪されちゃったんでしょうね。死ぬよりも屈辱って言ってたくらいなので。私もセツムショウくんに意地悪したいです。

以下ネタバレなんですが、
セツムショウは結局ベツテンガイに勝負を挑み、剣を交わうまでもなく自分の敗北を悟りながらも死ぬんですが、私にとって最後まで気持ちの良いキャラクターでした。とても愛おしい。

以上ネタバレ終わり。

私は否応無く人を斬りたくてしょうがないキャラクターが好きでしょうがないのですが今まで出会ってきた中で上位に食い込む愛おしさです。キチョウの紹介でも書きましたが、キャラクターの「矜持」を大切にすることで倫理観を逸脱して尚そこに圧倒的な説得力が生まれるんですよね。私個人が無根拠、無意味な矛盾や二転三転する意思を嫌悪しているだけなんですが…。
人を斬る為に生まれ人に斬られ死ぬ、変な話それは一種の仁義のように思えるんですよね。一般的に因果応報と言いますが。
私は空想上でそういうひとつの人生が、物語があって欲しいなあと思ってます。私がただ救われて良い気持ちになるためだけでも。


蔑天骸(ベツテンガイ )
ぼきわ、尊大な支配者が大好き。そして関智一が大好き。
セツムショウと並んでとても好きになったキャラです。悪役とされる者が傲岸不遜、強者の驕りがあって粋なのは最高ですね。
オタクはみんな好き好き~な話は、

以下ネタバレなのですが

セツムショウがベツテンガイに挑み破れた後その亡骸を丁重に扱えと指示したところです。時には礼節を以って敗者を敬うんですよね。元はといえば武人だったわけですから。
ベツテンガイはたとえこの物語で最後討ちやぶられ死んだとしてもそれはもうその死に様ですら悪逆そのもののような潔いものを期待していましたがその通りになって嬉しかったです。簡単に正義とかなんか耳障りの良い無粋なものに壊されなくてよかった。

以上ネタバレ終わり。

 

オタク的ロマンの心地良さ

 

キャラクターを一通り見てみてもめちゃくちゃテンプレートだ。でもそのテンプレートが心地よくて助かります。私みたいなオタクはやっぱり見てて心地よい物語を何回も擦り続けることが好きなんですよ。
虚淵がこれはもっと多くの人に知ってもらわないと勿体無いと言ったのもわかります。仁義を通すってのが好きだからなあ。オタク的予定調和でなされた構成や台詞回しは言い方を変えると「ロマン」。古くからある物語であるならそれは約束されたものなんですね。

それに、キャラクター感想の際再三述べたんですが、どんなに非道悪党であっても「キャラクターの矜持」を守ることが、下手な救済だったり改心よりも余程心に刺さりませんか?

 

諸事情でまだ二期と劇場版が未視聴なのですがこれからまた視聴したら感想追記したいと思います。キチョウとセツムショウの因縁が描かれてるとのことなので。

 

 

摂理に負けて死にそう

ここ数ヶ月、止まない希死念慮で脳が支配されて「あ、これってもしかして自然淘汰?」とボンヤリ天井を見上げて1日が終わります。これは遺伝系精神疾患&成人してから自閉症発覚&毒親持ち自己肯定難問人間の、明日死ぬかもしれない精神状態を綴った日記です。
似た環境にあって同じ苦悩を抱えている人に共感を経て何か生まれるものがあればいいなとも、そうでない人にもこういう苦悩が存在するんだなという受容が生まれるといいなとも思った次第です。

こうなった経緯の順を細かく追うとめちゃくちゃ長くなるので別記事にまとめます。

①親の愛に殺されそう
②社会の正しさに負けそう
③摂理に負けて死にそう

ひとまずこの大きく区分した三段階を予定しています。
今回の記事は初投稿にも関わらず③の「摂理に負けて死にそう」です。

多くの人が口に出し時には抱くこともある「死にたい」という感情、精神状態。結果的に同じメカニズムであっても感覚的に「苦痛からの逃避」と「脳機能の問題」の二通りがあると思っていて、私はどちらの経験もあるので一方が重症度の優劣があるわけでなく、ただ後者の方を経験している今の状態が今までにない「ヤバさ」を感じていて、言い知れぬ不安感があるのでここ一年程の経験を通して感じたことを改めて言葉にしてみます。

それにはわかりやすい直接的な起因の一つがあります。
一年程前、毒親の母親が自殺しました。母親はもともとのヒステリックで情緒不安定な気質に加えて数年前からパニック障害等に罹患していました。実家から離れてほとんどの連絡を絶っていたのでのちのち話を聞くと以前から両手で収まらない数の自殺未遂を繰り返してたらしく、薬の管理は父親が、包丁など自分を傷つける可能性のあるものは隠し首を吊らないように家の庭にあった木々は全て根元から切られ更地になっていた程でした。
そんな経緯もあり、別記事で詳しく後述しないと言い訳もつかない話なのですが、正直両親に自立心だとか自尊心だとかをボキボキに折られ傷ついてばかりいたので母親が亡くなったことについては悲しみとかより先に安堵感がありました。ただその安堵感を圧倒的に上回る失望感が私の希死念慮を着々と肥大化させていて、日常生活に支障をきたす程困っている現状に至ります。
というかここ数週間でやっと気が付いたんですが、自分はまだ「自死遺族」として全くもって立ち直れていません。そこに悲しみだとかが伴っているかはまず置いておいて、ただその事実に打ちのめされた精神状態のまま治らない風邪を引いたように日を追うごとに脳の体調が悪くなっている。私はうっかり失念していたんです。自閉症ゆえに「嫌な記憶を忘れにくい」ことを。(そしてそれを自覚することにものすごい時間がかかる。)

「失望」というからには少なくともそんな生前の母親にも期待をしていたんです。「いつか分かり合えるかもしれない」「いつか私のありのままを受け入れてくれるかもしれない」といういたいけで傲慢な期待です。おそらく母親からの精神疾患の体質遺伝のある私は母親とともに地獄に堕ちていたかった。だから先にその地獄から解放された母親がずるくて堪らないんですね。本当に身勝手な話なんですが。
自分の精神疾患の一因で実害もあった母親がもう自分を傷つけてくることが無くなったことへの安堵、そして二度と期待を抱くことができなくなった失望感。その二つによって時差式でジワジワと確実に自分の精神が摩耗していっています。今現在も死ぬまでずっと。
この私が抱える前進のない苦悩をみて、おそらく「そんなことない、乗り越えられるものなのに」ともどかしさを覚える人もいるかもしれない。でも自分にとって苦痛というものは乗り越えたらすごいとかそういう話ではなく、「減らない負債」でしかないんです。
生きている限り増えていくだけで、癒えることは期待できない。いつまで経ってもその苦痛が不可思議なまま自分の中に蓄積されていく。慢性的な健忘症なのに。

そんなことが発端で今現在ほぼ無職で所持金ゼロ貯金ゼロ。
母の自殺後、いろいろ事情が重なり仕事の都合上一度実家に回収されましたが元々両親が嫌で上京した人間がうまくやれる筈がなく、持病の双極性障害が悪化し抑うつ状態になりほぼ引きこもり、それに耐えられず半年ほどで神奈川に住む友人宅に旅行を偽って逃げそのまま居候状態。
その後寝たきりと労働を繰り返しなんとかやってきましたがここ3ヶ月ほど抑うつ状態が続きそれ以来寝たきりで、おそらく寛解したと思いこんでいた社会不安障害の症状が出てきてうまく就労に至らない。カードの返済も滞納し、人生で一番社会的に死んでいます。

なので居候先の友人にこれ以上迷惑をかけるのが本当に申し訳なく、ボンヤリと天井を見つめながら日々何時間も自殺を想定しています。

もともと生まれてこのかた情緒が安定したことなんてなかったし、もう7年程精神疾患に罹患していて希死念慮なんて日常茶飯事でしたが明らかに今までと違ったのは、脳が死を自然と選択しようとしているような状態。
強い情動にかられて「苦しい、辛い、泣きたい、もう嫌だ死のう」でなく「ああ外は晴れてるんだな、寒いかな、暖かいかな、死のうかな」な希死念慮です。そこで我に返ってしまえば笑い話で済むものの、その希死念慮が一度生まれてしまったら最後、苦痛とかが伴わず当たり前に頭の中で死のシミュレーションが始まってしまいます。
まず起きて風呂に入って着替える。駅まで行って快速が止まらない駅まで移動して、駅のホームで何本か見送った後、身分証明証が入った財布の入った鞄はホームに残し「なんで飛び降り自殺をするときには靴を脱ぐんだろう、靴は脱ぐべきか?履いておくべきか?」と考え始める自分がいるだろうなと想定し、それでもホームに向かってくる電車を目視したらそんなことどうでもよくなって…までをシミュレートし次は練炭自殺について…という夢想に取り憑かれた状態です。
夢想と表現するとまた自分の感覚とは違ってきてしまって、どちらかというと次の瞬間には行動に移そうとする勢いの現実味をおびた想定に近いんですね。「こうしたいな~」でなく「さ~て。こうするか!」というニュアンス。全然死にたくないのに。
そう、全然死にたくないんですよ実際。そりゃ死んだ方がマシなくらい生きてるだけで辛いことが起き続けるし、精神疾患寛解が望めないし、死んだ方がいっそ楽。でもそれよも死にたいと思ってしまう健康状態をどうにかしたい。どうにかしたいけどその気力も体力も奪われてるし実際問題お金も時間もかかる。

ではなぜ今のところ実行に移さないでいられるのか。それは「友達が悲しむから」。めちゃくちゃ単純明快。(実際今は起き上がって駅に歩いていくまでの体力がないのもあるんですけど。自殺まで至るにはめちゃくちゃ大きな気力と情動が必要ですよね。パワー。)
友人の存在が抑止材料になるまでの経緯は初めて自殺未遂をしたのはおそらく20歳過ぎた頃で、直前まで友人と過ごしていました。友人と別れて一人暮らしの家に帰りそのまま大量のアルコールと共に大量服薬。救急搬送のち警察署保護で事なきことを得ました。
そのことが友人のトラウマになったようで普通に反省しているし、その時私が死んでいて一生後悔に苛まれて生きる友人を想像するだけで気が滅入ります。
なので今は外で自殺衝動にかられたときは交番に行って身柄を保護してくださいと頼むようになりました。
私は行間を読んだり理由を察すことが苦手で何事も「言われないとわからない」ので、実際の例があって想像に至らないと行動に移せない。自分に友人がいなければとっくに死んでいたと思います。

冷静に考えて自分は死んだ方がいいとは全く思わないし死ぬべき人間なんて一人もいないという主義を貫きたい。ただただ私の脳が勝手に死にたがってしまう。死にたくない、死にたいと思う健康状態をどうにかしたい。
この今現在の希死念慮の起因となる母親の自殺に際して、そもそも「死を受け入れる」とはなんなのか。人それぞれの尺度がありますが私は「日常生活をいつも通り送れること」だと定義したいです。
でも明日また希死念慮に囚われてそれを実行する体力と気力があったらどうしよう。今度こそ死んでしまうかもしれない。
苦痛を伴わなずとも湧き上がる希死念慮、なぜ生まれてくる?
自分が生命の自然の摂理によって淘汰されてるとしか思えない。 このままだと自然の摂理に負けそう。

次回書けるといいね ハム太郎