摂理に負けて死にそう

ここ数ヶ月、止まない希死念慮で脳が支配されて「あ、これってもしかして自然淘汰?」とボンヤリ天井を見上げて1日が終わります。これは遺伝系精神疾患&成人してから自閉症発覚&毒親持ち自己肯定難問人間の、明日死ぬかもしれない精神状態を綴った日記です。
似た環境にあって同じ苦悩を抱えている人に共感を経て何か生まれるものがあればいいなとも、そうでない人にもこういう苦悩が存在するんだなという受容が生まれるといいなとも思った次第です。

こうなった経緯の順を細かく追うとめちゃくちゃ長くなるので別記事にまとめます。

①親の愛に殺されそう
②社会の正しさに負けそう
③摂理に負けて死にそう

ひとまずこの大きく区分した三段階を予定しています。
今回の記事は初投稿にも関わらず③の「摂理に負けて死にそう」です。

多くの人が口に出し時には抱くこともある「死にたい」という感情、精神状態。結果的に同じメカニズムであっても感覚的に「苦痛からの逃避」と「脳機能の問題」の二通りがあると思っていて、私はどちらの経験もあるので一方が重症度の優劣があるわけでなく、ただ後者の方を経験している今の状態が今までにない「ヤバさ」を感じていて、言い知れぬ不安感があるのでここ一年程の経験を通して感じたことを改めて言葉にしてみます。

それにはわかりやすい直接的な起因の一つがあります。
一年程前、毒親の母親が自殺しました。母親はもともとのヒステリックで情緒不安定な気質に加えて数年前からパニック障害等に罹患していました。実家から離れてほとんどの連絡を絶っていたのでのちのち話を聞くと以前から両手で収まらない数の自殺未遂を繰り返してたらしく、薬の管理は父親が、包丁など自分を傷つける可能性のあるものは隠し首を吊らないように家の庭にあった木々は全て根元から切られ更地になっていた程でした。
そんな経緯もあり、別記事で詳しく後述しないと言い訳もつかない話なのですが、正直両親に自立心だとか自尊心だとかをボキボキに折られ傷ついてばかりいたので母親が亡くなったことについては悲しみとかより先に安堵感がありました。ただその安堵感を圧倒的に上回る失望感が私の希死念慮を着々と肥大化させていて、日常生活に支障をきたす程困っている現状に至ります。
というかここ数週間でやっと気が付いたんですが、自分はまだ「自死遺族」として全くもって立ち直れていません。そこに悲しみだとかが伴っているかはまず置いておいて、ただその事実に打ちのめされた精神状態のまま治らない風邪を引いたように日を追うごとに脳の体調が悪くなっている。私はうっかり失念していたんです。自閉症ゆえに「嫌な記憶を忘れにくい」ことを。(そしてそれを自覚することにものすごい時間がかかる。)

「失望」というからには少なくともそんな生前の母親にも期待をしていたんです。「いつか分かり合えるかもしれない」「いつか私のありのままを受け入れてくれるかもしれない」といういたいけで傲慢な期待です。おそらく母親からの精神疾患の体質遺伝のある私は母親とともに地獄に堕ちていたかった。だから先にその地獄から解放された母親がずるくて堪らないんですね。本当に身勝手な話なんですが。
自分の精神疾患の一因で実害もあった母親がもう自分を傷つけてくることが無くなったことへの安堵、そして二度と期待を抱くことができなくなった失望感。その二つによって時差式でジワジワと確実に自分の精神が摩耗していっています。今現在も死ぬまでずっと。
この私が抱える前進のない苦悩をみて、おそらく「そんなことない、乗り越えられるものなのに」ともどかしさを覚える人もいるかもしれない。でも自分にとって苦痛というものは乗り越えたらすごいとかそういう話ではなく、「減らない負債」でしかないんです。
生きている限り増えていくだけで、癒えることは期待できない。いつまで経ってもその苦痛が不可思議なまま自分の中に蓄積されていく。慢性的な健忘症なのに。

そんなことが発端で今現在ほぼ無職で所持金ゼロ貯金ゼロ。
母の自殺後、いろいろ事情が重なり仕事の都合上一度実家に回収されましたが元々両親が嫌で上京した人間がうまくやれる筈がなく、持病の双極性障害が悪化し抑うつ状態になりほぼ引きこもり、それに耐えられず半年ほどで神奈川に住む友人宅に旅行を偽って逃げそのまま居候状態。
その後寝たきりと労働を繰り返しなんとかやってきましたがここ3ヶ月ほど抑うつ状態が続きそれ以来寝たきりで、おそらく寛解したと思いこんでいた社会不安障害の症状が出てきてうまく就労に至らない。カードの返済も滞納し、人生で一番社会的に死んでいます。

なので居候先の友人にこれ以上迷惑をかけるのが本当に申し訳なく、ボンヤリと天井を見つめながら日々何時間も自殺を想定しています。

もともと生まれてこのかた情緒が安定したことなんてなかったし、もう7年程精神疾患に罹患していて希死念慮なんて日常茶飯事でしたが明らかに今までと違ったのは、脳が死を自然と選択しようとしているような状態。
強い情動にかられて「苦しい、辛い、泣きたい、もう嫌だ死のう」でなく「ああ外は晴れてるんだな、寒いかな、暖かいかな、死のうかな」な希死念慮です。そこで我に返ってしまえば笑い話で済むものの、その希死念慮が一度生まれてしまったら最後、苦痛とかが伴わず当たり前に頭の中で死のシミュレーションが始まってしまいます。
まず起きて風呂に入って着替える。駅まで行って快速が止まらない駅まで移動して、駅のホームで何本か見送った後、身分証明証が入った財布の入った鞄はホームに残し「なんで飛び降り自殺をするときには靴を脱ぐんだろう、靴は脱ぐべきか?履いておくべきか?」と考え始める自分がいるだろうなと想定し、それでもホームに向かってくる電車を目視したらそんなことどうでもよくなって…までをシミュレートし次は練炭自殺について…という夢想に取り憑かれた状態です。
夢想と表現するとまた自分の感覚とは違ってきてしまって、どちらかというと次の瞬間には行動に移そうとする勢いの現実味をおびた想定に近いんですね。「こうしたいな~」でなく「さ~て。こうするか!」というニュアンス。全然死にたくないのに。
そう、全然死にたくないんですよ実際。そりゃ死んだ方がマシなくらい生きてるだけで辛いことが起き続けるし、精神疾患寛解が望めないし、死んだ方がいっそ楽。でもそれよも死にたいと思ってしまう健康状態をどうにかしたい。どうにかしたいけどその気力も体力も奪われてるし実際問題お金も時間もかかる。

ではなぜ今のところ実行に移さないでいられるのか。それは「友達が悲しむから」。めちゃくちゃ単純明快。(実際今は起き上がって駅に歩いていくまでの体力がないのもあるんですけど。自殺まで至るにはめちゃくちゃ大きな気力と情動が必要ですよね。パワー。)
友人の存在が抑止材料になるまでの経緯は初めて自殺未遂をしたのはおそらく20歳過ぎた頃で、直前まで友人と過ごしていました。友人と別れて一人暮らしの家に帰りそのまま大量のアルコールと共に大量服薬。救急搬送のち警察署保護で事なきことを得ました。
そのことが友人のトラウマになったようで普通に反省しているし、その時私が死んでいて一生後悔に苛まれて生きる友人を想像するだけで気が滅入ります。
なので今は外で自殺衝動にかられたときは交番に行って身柄を保護してくださいと頼むようになりました。
私は行間を読んだり理由を察すことが苦手で何事も「言われないとわからない」ので、実際の例があって想像に至らないと行動に移せない。自分に友人がいなければとっくに死んでいたと思います。

冷静に考えて自分は死んだ方がいいとは全く思わないし死ぬべき人間なんて一人もいないという主義を貫きたい。ただただ私の脳が勝手に死にたがってしまう。死にたくない、死にたいと思う健康状態をどうにかしたい。
この今現在の希死念慮の起因となる母親の自殺に際して、そもそも「死を受け入れる」とはなんなのか。人それぞれの尺度がありますが私は「日常生活をいつも通り送れること」だと定義したいです。
でも明日また希死念慮に囚われてそれを実行する体力と気力があったらどうしよう。今度こそ死んでしまうかもしれない。
苦痛を伴わなずとも湧き上がる希死念慮、なぜ生まれてくる?
自分が生命の自然の摂理によって淘汰されてるとしか思えない。 このままだと自然の摂理に負けそう。

次回書けるといいね ハム太郎